旅の最終地点

ちょうど10年前、私が大学を卒業して最後の春休み。

大氷河期と言われた就職活動の歳、幸いにも私は第一志望の会社に内定を頂けた。
しかし、私にはこれだけは誰にも負けないというものはなく、何処にいてもいつもその集団の平均にいた。
40年間社会人として生きていける自信は私にはなかった。
また、人の中に埋もれていくのだ。

社会人になって振り返ったとき、自分が人と違った何かをした記憶が欲しくて、自転車で旅にでた。

旅立ちは都内にある大学の部棟入口でたくさんの後輩が自転車旅行の話を聞いて見送りに来てくれた。
春休みで日差しはあるけど、少し肌寒い気温は自転車で旅をするにはちょうど良かった。
アルバイトでためたお金があったから宿も決めず、西へ行く無謀な計画で漕ぎ出した。

静岡の山中で真っ暗になってしまった時にみた「クマ出没」はすごく怖かった。
名古屋で簡易テントで寝ていたら、すぐ近くで若者の乱闘があったのも怖かった。
琵琶湖の大きさは海だと思った。
中国地方入口で入った宿のおばあさんと非常灯の明かりしかない廊下も怖かった。

私は広島にたどり着いた。
旅の終わりが見えた私は広島でのんびり観光をしようと様々なところを回った。
日が暮れて、資金に余裕が見えたので予約しないと泊まれない大人気のホテルに泊まることにした。
学生の私からすればとても高級で、今でも泊まるのは躊躇するようなホテルだ。

今思えば遠くまで来て、気が大きくなっていたのだと思う。

案内された部屋は綺麗で海を眺める最高の部屋だった。
僕の住む県には海が無いから憧れの景色だった。
夕食まで少し時間があったのでテレビをつけ、ベッドに背中から飛び込んだ。

・・・少しへこんでるな。ベッドも最高級を売りにしてるの。やれやれ
フロントに電話してマットレスを変えてほしいとお願いをした。

すると、数分後にホテルのコンシュエルジュが部屋にきた。
他の部屋をご用意しましたと、

案内されたのは最初の部屋の10階上のツインの部屋、僕のバイト代では絶対に泊まれない部屋だった。
先ほどの部屋と見える眺望の角度が比にならない。
窓の前に立つと自分が空を飛んでいるような錯覚を起こし体が弛緩と緊張を繰り返した。
なんだか申し訳なくなってコンシュエルジュに頭を下げてしまった。

とはいえ、こんないい思い出来るなら言ってみるものだな。
今までの人生、人に気を使って自分の意見を言えたことなど微塵もなかった。
一体どれだけ損をしてきたのだろうと今までの自分を悔いた。

ディナーは手持ちの服では恥ずかしい場所だったが、美味しいコース料理だった。
ウェイターはお一人の僕に対して少し長めに料理の説明をしてくれて流石は1流のホテル。
僕も社会人になったら人に喜んでもらって、それで給料をもらうのだと意気込んだ。

お腹はいっぱいになり、ホテルの露天風呂で旅の疲れを吹っ飛ばした。
そして部屋でテレビを見ながら心地よいまどろみを楽しんでいた。
安心して寝れる事が少なかった旅で私はユートピアについたのだ。

最高級のベットに抱かれて私はテレビを見ながら枕の中に意識と脳味噌がどろどろと吸い込まてれ行った。

突然、両手の人差し指と中指を誰かがつかんだ。
強くなく、感触だけを感じる程度の優しさで。

私はすぐに目を開いた。

暗闇の中により一層黒い人影が私のお腹の上に座って、私の両手指をつかんでこっちを向いていた。
躰が全く動かない。目をそらせない。耳鳴りと心音がうるさい。

怖い

怖い

怖い

助けて

どうして

なんで体がうごかないの

頭の中が恐怖で満たされる。

声を出そうとしても吐く息が強いだけでなにもできない。

どうしてか私はこう思った。
何かに完全に支配されていった。
何かに私は負けてしまったのだ。
このまま連れていかれる。

その時に、何かの手が指を離した。
手は腕を伝って肩、首、顎、頬とゆっくり滑っていった。

頬で止まった手はやはり感触だけを感じる程度の優しさで、
その事が余計に何かの優位性を私に感じさせていた。

何かの顔がゆっくり近づいてきた。

耳鳴りの音が高くなり、心音は静かになっていった。
耳が痛い。

痛い

痛い

体の存在がだんだんと私に近づいてきた。

何かの顔を見たくないのにそれが感覚として見えてきた。

顔は青いタオルをくしゃくしゃにした様な。

違う酷い肌荒れだ。

顔面の肉は腫れあがって。

何かは眼が開かない。

口が少し開いた。

甘い匂い。

認識が深まるにつれて体と心が繋がった。
私と何かの顔の間に右腕を突っ込んで押し上げた。

何かはまだ小さい男の子の声できゃっと言ってベッドから落ちた。

体を起こして逃げようとしたが、体が小刻みに震え始めた。
部屋の外に出ようと這いずった。
震えが全身に広がり、ついにぶるぶると体が痙攣しだした。
ドアの取っ手を回したいのに痙攣で思うように立ち上がれない。

後ろに立って見下ろしてる。

体に疲労が帰ってくる。
寒くて寂しい。
息が出来ない。

死にたくない、逃げなきゃ

飛び付くように取っ手に掴まり、ドアを顎で開く。
廊下からさすオレンジ色の光で逃げ切ったと思った。

オレンジの光が白くなっていく。

目が覚めると綺麗な病院にいた。
廊下で倒れていて、救急車で運んでもらったそうだ。
3日間念のための入院をさせられた。

1日目病院内にあるスターバックスでラテを買って、起きたことに一生懸命科学的根拠をつけようと
ガラケーをいじっていた。答えなんて見つからなかった。

2日目にコンシュエルジュがお見舞いに来てくれた。
ホテル代は結構ですとおっしゃっていただき、重ね重ね申し訳なく思った。
なんていいホテルなんだろう、二度といけないけど。

3日目、医師の診察の後に退院、タクシープールでタクシーに乗り空港へ。
何も持って帰ってはいけない気がしてほぼすべての物を捨てて海なし県へ帰った。

記憶だけは捨てられない。

何かが口を開けた時に香った甘い匂い。

バラの香りだ。

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